海の祭レポート
坂越の船祭り(兵庫県赤穂市) 開催日:毎年10月第二土・日曜日
櫂伝馬船の男たちが魅せるユーモラスな「バタかけ」。奥には神輿船が見える。
坂越の船祭りは、兵庫県赤穂市坂越(さこし)にある大避(おおさけ)神社の秋の祭礼。2012年に国の重要無形民俗文化財に指定。毎年10月の第2日曜日に行われます。小高い山の中腹にあって、海を望む大避神社。獅子舞を露払いに、氏子を代表する「頭人(とうにん)」らが付き従い、神輿が浜辺へ運ばれます。神輿を船に移し替える際に浜から船へ渡すバタ板を使って場を賑やかす「バタかけ」は非常に人気があります。そして、海からは手漕ぎの和船「櫂伝馬(かいてんま)」が先導し、神輿は船に乗り、湾内を巡航したしたのち、普段は立ち入り禁止の生島(いきしま)の御旅所へ。御旅所での儀式ののち、再び神輿が大避神社へ戻って祭りは終わります。
赤穂の塩を全国へ運んだ塩廻船の発信地であり、日本遺産の「「日本第一」の塩を産したまち 播州赤穂」や「荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」にも認定され、北前船のルートとしても重要な港である坂越の歴史が凝縮された「坂越の船祭り」を紹介します。
「忠臣蔵」と「塩」で全国に知られる兵庫県赤穂市。瀬戸内海に千種川が流れ込むことよりできる干潟を利用した入浜式塩田の大型開発が江戸初期に行われ、江戸をはじめ全国にその名を知らしめることとなった「赤穂の塩」。赤穂各地で作られた塩は一度、坂越浦に集められ、塩廻船と呼ばれる船に乗って江戸に運ばれ、また北前船に乗って各地へと運ばれて行きました。
坂越が天然の良港となったのには、湾内に浮かぶ生島が大きな役割を果たしています。湾を遮り、防潮堤の役割を果たす生島があることで船の安全な寄港が可能となります。坂越の船祭りを行う大避神社の成立にも、この生島が欠かせません。大避神社の祭神は「秦河勝(はたのかわかつ)」。日本に様々な技術を伝えた渡来人秦氏の当主で、聖徳太子を補佐していましたが、蘇我入鹿の迫害を受けて坂越へと辿り着き神社へと祀られます。そして、その秦河勝の墳墓が生島につくられ、生島は神域として人の立ち入りが禁じられます。そういった経緯もあって太古の生態系が保存され、生島樹林は国の天然記念物にも指定されています。
坂越が江戸時代に非常に重要な港として栄えたのは生島のおかげと言ってもいいでしょう。その生島が神聖視され、秦河勝という客人(まれびと)、来訪神(らいほうしん)的な性格を持つ神様が祀られているというのは、非常に興味深いことです。港町であるがゆえに、良いものも、悪いものも、外からどんどんとやってくる、その人々の外部への想像力が、この坂越の船祭りに注がれているのかもしれません。
坂越浦沖に浮かぶ生島。港の防潮堤の役割を果たす。写真下部の沿岸に廻船問屋等の街並みが広がる。
坂越で廻船問屋を営んだ奥藤家。現在は酒蔵の奥藤酒造。写真の右奥の突き当たりはすぐ海。
大避神社に奉納された塩廻船の絵馬(1772年)。大避神社には多くの船絵馬が奉納されている。
2019年の坂越の船祭りは、前日に行われる「宵宮」が台風19号の影響で規模を縮小するという話を伺い、10月13日の本祭のみ取材させてもらいました。JR播州赤穂駅から一駅の坂越駅。丘を越えると江戸時代の風情を残す街並みが現れ、すぐに浜辺に出ます。午前9時、台風一過の晴天のなか、海から威勢の良い掛け声が聞こえてきます。野太い「よいよやなー」「よいよやなー」という声。赤いハッピに白いフンドシ姿の男たちが、手漕ぎの和船「櫂伝馬」を威勢よく漕いでいます。2叟の櫂伝馬が競い合うように岸に近づいては沖に出てを繰り返し、この後、神輿船が巡航する海を清めているようでした。威勢の良い男たちの姿にも目を奪われますが、櫂伝馬は近代的な設備を一切排した昔ながらの和船。絵巻から抜け出てきたような、数百年当地で続く光景に早速感動してしまいました。
フンドシ姿の男たちが威勢よく漕ぐ櫂伝馬
この坂越浦を見渡す宝珠山の麓にある「大避神社」。海と、海に浮かぶ生島に向かって参道が一直線に伸び、その先に神社の本殿が建っています。午後からの祭りに備え多くの人が行き交いながらも、どことなく晴れ晴れしい雰囲気が漂ってきます。
大避神社の境内からは海と生島が望める
お昼前になると、坂越の町のあちこちから、様々な役を担った人々が神社へと集まってきます。まずは頭人(とうにん)。坂越十町の氏子を代表する5人の役で、直垂に烏帽子を被り、お付きの人が和傘をさし、黒いスーツの男たち(ダブルが多い)が警固についています。「◯◯町の頭人やぞー!!」「◯◯町の頭人、男前!」と言った名乗りをしながら、参道を練り歩いていました。沿道の人にお酒を振る舞ったり、他の町の頭人と絡んでみたり、近年あまりみない羽振りのいい大旦那の道中と言った風情で、晴れやかな日を演出しています。
参道を登る頭人の行列。各地から次々に集まってくる
12時半から本祭がいよいよスタート。祭礼の中では、楽人による雅楽、歌船組による船歌、獅子組による獅子舞が奉納され、神輿渡御にも付き従います。大避神社の祭神である秦河勝は、猿楽の始祖とも伝えられ、芸能の神としての信仰も篤く、1997年には東儀秀樹氏が来演しています。歌船組は、神輿が出発する際には「祝言歌」、海上渡御の際には「春」「夏」「秋」「冬」の歌をうたい、生島に神輿が着く際には「お迎えの歌」をうたい、神輿の道中を言祝いでいきます。
獅子は大神楽系で、中高生を中心に、威勢よく舞われていました。かつては他所から雇っていたとのことですが、大正期に上高谷が独自に道具を揃え、受け持っているとのこと。鼻高で赤ら顔の猿田彦を先頭に、数名の子どもと2頭の獅子が行列を先導していきます。階段や人混みも多く、子どもや足元の見えにくい獅子にもかかわらず、獅子組の進行は見事で、世代を超えたチームづくりやこの日にかける想いが伝わってきました。
また賑やかな獅子の行列に比べると、神輿は粛々と担ぎ出されていきます。八角の神輿は江戸時代に描かれた「大避神社祭礼絵巻」の頃より変わらないもの。神社から浜へとゆっくり向かっていきます。
猿田彦と獅子が祭りの行列を先導する
境内から担ぎ出される八角の神輿。掛け声などは特にない
神輿が浜についてからは、いよいよ櫂伝馬の出番。海上で神輿を先導する役割を担う櫂伝馬ですが、その前に大きな晴れ舞台があります。それが「バタかけ」と呼ばれる、神輿を船に載せる際に船に渡す板(バタ板)を架ける場面です。これが歌舞伎の道行きや神輿の練り以上に、たっぷりとユーモアを交えて魅せてくれる出し物となっています。7枚の板を1枚1枚、フンドシ姿の男たちがもみくちゃになって担ぎ出しては、観客に突っ込んだり、上に乗ってみたり、組み合わせて回転したり、V字に立ててその上に登ったりと変幻自在。一通り練ると、「捧げましょ♪ 捧げましょ♪」と船まで担いでいく様はなんだか可愛らしくもあり、不思議な魅力があります。
いつから始まったのかは分かりませんが、神輿を単に船に載せ替えるのではなく、祭りのハイライトとして海に出る場面を演出したのかもしれません。また、神輿船に船を載せられないかぎり、祭りは次に進めません。櫂伝馬が担う役割の中で、祭り全体の進行権を握れるこの場面で最大の見せ場を作っていった、ということかもしれません。いずれにせよ、創意工夫に溢れたこの「バタかけ」はいろんな方に見てもらいたい、とっても素敵な芸能です。
バタ板を高く掲げ、上に登って幕を披露する櫂伝馬の男衆
たっぷり時間をかけて船に乗り込むと、祭り行列の一団は海上渡御を行います。櫂伝馬を先頭に、獅子船、頭人船、楽船、神輿船、警固船、歌船の順で湾内をぐるっと巡航し、生島の御旅所へと向かいます。ちなみに獅子船は舞台になっていて海上でも獅子を舞いながら進んでいきます。
坂越浦をめぐる船祭りの船団。神輿船のお供に櫂伝馬、獅子船、頭人船、警固船、歌船などが従う
船団が生島に着くのが16時半。そこから1時間半ほど、御旅所にて祭礼を執り行い、島を帰る頃にはちょうど日没。あたりがみるみる暗くなっていきました。満月が浜を照らすと、次々に篝火が焚かれ、神輿船の還御を待ちます。櫂伝馬は生島には上陸せず、浜に戻っていましたが、再び生島へ神輿を迎えにいき、還御の際も先導役を勤めます。神輿船が岸に着くと、再びあの「バタかけ」が始まるのです。その年の櫂伝馬の最後の見せ場ということもあって熱気も最高潮となり、激しいパフォーマンスをへて、バタ板7枚がようやくかかり、万歳三唱。そしてようやく神輿が船から担ぎ出され、神社へと還御され祭りも終了。
本祭自体は日曜日の約半日ですが、非常に要素が多く、土地の歴史と工夫に溢れた素晴らしいお祭りでした。
坂越の船祭りは見所が多く、一度ではとても味わい尽くせませんが、今回は櫂伝馬を中心に見てきました。その中で、櫂伝馬を担う親子にお話を伺うことができました。大避神社のある東之町で、先祖代々櫂伝馬に参加してきたという杉本さん。「櫂伝馬は地域の誇り」と、この坂越に伝わってきた歴史や文化、そして心意気を大切に受け継ぎながら、確かに次代へと渡していきます。現在大学生の息子さんも、今年は、船の後ろで舞い囃す「シデ振り」で櫂伝馬に参加。「できる限りやり続けていきたい」と決意を口にしていました。
しかしながら、昔ながらの和船を男衆の腕力で勢いよく動かしていくには人手は必要不可欠。地元だけでは人手不足に陥っている現状があります。近隣に住む友人らに声をかけ、漕ぎ手を集めながら、その年の櫂伝馬にのぞんでいっています。塩廻船や北前船が行き来し、廻船問屋や塩業者、漁師たちで賑わった江戸時代当時とは環境はかなり変化しています。ですがそれでも、「坂越には櫂伝馬がある。船を使って、地域の海の綺麗な景色の中で祭りができるのは、この地域の財産です」と杉本さんがいうように、地域の海には欠かせないこの祭り。各時代、各世代に、大切にされながら受け継がれていく祭りの厚みを感じることができました。
櫂伝馬を担う杉本さん親子
赤穂市歴史博物館編『企画展資料集 坂越の船祭り』赤穂市歴史博物館、2000年
赤穂市教育委員会生涯学習課編『坂越の船祭り総合調査報告書』赤穂市教育委員会生涯学習課、2010年
坂越の船祭りを見終わると、「いい祭りを見たなぁ」という満足感でいっぱいになりました。祭りに関わる要素を省略せず、一つ一つ丁寧に紡いでいるのが伝わってきたからです。もちろん現在では難しい役や、儀式が多くあるでしょう。しかし、頭人の一群が醸し出すお花見のような華やかな雰囲気、先輩が後輩を導き一身に獅子を舞う甲子園球児たちのような中高生のひたむきさ、ふんどし姿に物怖じせず晴れ晴れしく今日の主役だといわんばかりの胸を張った櫂伝馬の男衆を見るに、それぞれに自分たちなりの祭りの楽しみ方をしている、文化が生きている感じがビンビンに伝わってきて刺激的な体験でした。
坂越の船祭りは、2012年に国の重要無形民俗文化財に指定されていますが、その指定に際して行われた『坂越の船祭り総合調査報告書』が非常に詳細で読み応えあるものなので、興味がわいた方はぜひそちらもお楽しみください。このように坂越の船祭りは歴史文化的に様々な切り口のアプローチが可能です。坂越の船祭りは、日本遺産にも2つに指定されています。「「日本第一」の塩を産したまち 播州赤穂」、「荒波を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」ですが、塩廻船は大阪を経て江戸へ、北前船は大阪から瀬戸内を抜け、日本海を経由して蝦夷へ繋がるルートで、この2つが交わる坂越こそ、江戸時代の海運ルートの要だったことは間違い無いでしょう。
そして、個人的な考察となりますが、前回取材した 島根県松江市のホーランエンヤに続き、櫂伝馬が祭りにおいて大きな役割を果たしています。豪華絢爛なホーランエンヤに比べ、坂越の櫂伝馬は男たちが力一杯漕ぎ出すスタイルでありながら「バタかけ」を始めどこかユーモアを伴った雰囲気です。坂越には、船の先端で踊る「剣櫂」こそありませんが、「采振り」はホーランエンヤと共通で、江戸期に流行した「櫂伝馬踊り」の伝播力を感じることができました。また伊勢大神楽を思わせる獅子舞も船に乗ってやってきたものかもしれませんし、船唄や頭人の分布を見て行っても、それぞれに調べごたえのある物が出てきそうです。
北前船が作ってきた海上の大幹線道路。そこで行われた盛んな物資や文化のやりとりを濃厚に感じることができるお祭りでした。
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