海の祭レポート

瀟洒!風雅!誇り高い天領のまちが”完成する”日

黒島天領祭(石川県輪島市)開催日:毎年8月17日、18日

黒島天領祭の目玉である巨大な曳山

「黒島天領祭」は、石川県輪島市門前町、黒島町地区のお祭りです。”キリコ”と呼ばれる巨大な灯籠のお祭りが多い能登半島ですが、天領祭はあくまで大きな山車「曳山(ひきやま)」のお祭り。下見板張りの家々が立ち並び、重要伝統的建造物群保存地区の指定もある街並みを、名古屋城・大阪城をモチーフにした2基の曳山が2日間巡行します。曳山とともに見物なのは、曳山の後方で、掛け声とともに必死に舵取りをする若衆の迫力。また、曳山を先導する獅子や奴、御神輿もお祭りに華を添えます。黒島町は、かつて幕府の直轄領である「天領」でした。それゆえに街は誇り高く、お祭りも独特な雰囲気を醸し出しています。

そんな黒島天領祭も、時代の変化に伴い難しい課題を抱えています。曳山の舵取りをはじめ、神輿や旗持ちには人手が必要なのですが、黒島町地区の高齢化は市平均よりも高く、地区外への人口流出は止まりません。近年は地区内だけではお祭りの催行に必要な人材を用意することが困難な状況。そこで9年前から、石川県内の大学生がお祭りを手伝うという取り組みが始まりました。

今回、私たちも、大学生ボランティアのツアーを通じてお祭りに混じらせていただくとともに、天領祭実行委員会の担い手さんや若手など、お祭りを支える様々な関係者にお話を伺ってきました。

海運業で栄えた、誇り高き天領の地。

黒島町があるのは、石川県輪島市門前町。輪島塗りで有名な石川県輪島市は、能登半島の北部に位置しています。金沢市は北陸新幹線が2015年3月に開業しアクセスがよくなったのですが、同じ石川県でも能登半島は交通の便がよくなく、今回は能登空港からレンタカーでお邪魔しました。

黒島町は「北前船」で栄えた町の一つです。当時の海運業者である廻船問屋がこの地に拠点を構えたほか、船頭や船員、船大工などもこの地に居を構えるようになり、今に続く集落となっていきました。現在の不便な陸路と、かつての豊かな海上交通のコントラストに想像力を刺激されます。今でも、下見板張りの建物で統一された街並みが、かつての栄華を感じさせます。

かつての廻船問屋の一つで、国指定重要文化財となっている「角海(かどみ)家」

周辺の集落が加賀藩領であった一方で、黒島町は17世紀末から明治元年まで長らく幕府の直轄地「天領」でした。天領ゆえに、より自由な経済活動ができたため、町が隆盛を極める一因にもなったようです。天領であったという歴史から、今でもまちの方々の心の底には、”おらがまち”に対するきわめて強いプライドが感じられます。お祭りの名前にも冠されているように、「黒島”天領”祭」なのです。

方向転換は力づくで。曳山によって完成される黒島のまちなみ。

二基の曳山が伝建地区を進む。

天領祭のシンボルは、2階建ての建物よりも巨大な、「曳山(ひきやま)」です。総輪島塗で「いま作れば億単位はかかる」(地元の人談)とも言われ、しかもそれが2基。それぞれ名古屋城、大阪城をモチーフにしています。

曳山は、町のほぼ中央に位置する「北前船資料館」を普段の保管場所(お祭り中は「御仮屋」となります)としています。この曳山、前進するためには曳山の前方に取り付けられたロープで引っ張る形なのですが、より大変なのは方向転換の時。後方に取り付けられた、直径30〜40cmはあると思われる木の棒「舵棒」を使って、右や左に、若衆が力づくで動かすのです。

曳山の方向転換はこの舵棒を使う

この舵棒を操作するためには、最低でも8名程度の力が必要です。力を合わせるための、掛け声がきわめて独特で、
『海ひとつ(=海側に1回動かせ)!』「せーの!」
『山ひとつ(=山側に1回動かせ)!』「せーの!」
というもの。右か左かではなく、海側か山側かという掛け声に、海と山に挟まれた黒島町の地域性を感じます。しかも、タイミング合わせるだけでは曳山は簡単には動いてくれません。腰を入れて、下から上に持ち上げるようにするのがコツなのだとか。御仮屋への出し入れの時に、大掛かりな方向転換が必要になるのは当然ですが、巡行する街道は幅員が約5m程度と狭く、かつ細かな蛇行をしていることから、頻繁に方向転換をしなければなりません。反面、直進時は舵棒に触れる必要すらないので、ただ歩いているだけなのですが、急に『山ひとつ!』と掛け声がかかるものだから、おちおち気を抜いていられません。

曳山は、一般的な神輿のように町内を隅々まで動き回るのではなく、基本的に1本のメインストリートのみを往復して巡行します。1日目は北側へ直進し、北端に到着すると折り返し、御仮屋へ戻ります。2日目は、今度は南側へ直進し、南端で折り返し、御仮屋へ戻るという具合です。

男衆による圧巻の方向転換

先頭から見た様子

曳山が巡行する黒島町は、この2日間はいつもと違う神聖さを放ちます。
まず、メインストリート沿いの家々には、家紋付きの垂れ幕がかけられます。家々で異なる色や文様だという点に、揃えられた提灯や紅白幕で”まちを飾る”のではなく、あくまで曳山を迎える”個人的な家の準備”であるように感じ、興味深い光景です。

家々にかけられる垂れ幕

さらに神聖さを感じることがあります。
商売をやっているお宅かどうか関係なく、メインストリート沿いの家のほとんどは「見世の間」と呼ばれる部屋を持っています。お祭り当日は、その「見世の間」に屏風や家宝を飾り、通りからそれらが見えるように戸を開放するのです。信仰の厚い家庭では、平伏して曳山を迎えることもあります。舵棒の掛け声に包まれながら、その様子はあまりに静寂。多くのお祭りのように、神酒や奉賛金を納める場面も見られます。この一連の流れに、町民と曳山との、黒島町ならではの関係性が見えるようです。

巡行する曳山を平伏して迎える光景

見世の間には、金屏風や輪島塗等、家宝が飾られる

曳山と垂れ幕と、見世の間に飾られた家宝によって、黒島町が完成するような印象を持ちます。
なお、文化庁が認定する日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」において、黒島町における構成文化財は「輪島市黒島地区伝統的建造物群保存地区」「旧角海家住宅」「黒島天領祭」の3つ。つまり、天領祭の日には、この3つの日本遺産が揃います。

パナマ帽、麻の羽織に草履。瀟洒な出で立ちの男衆。

ここからは、お祭りの担い手であるまちの方々にクローズアップします。誇り高い伝統行事を支えるその、裏側にはどのような事情があるのでしょうか。

瀟洒な風貌の祭礼委員会の担い手

天領祭は、町民で構成された「天領祭実行委員会」によって執り行われます。お祭りの担い手の多くは、上の写真のようなお姿。カンカン帽(またはパナマ帽)に麻の羽織、足元には足袋と草履。麻の羽織も自前で用意されているようで、みなさん色は似ているものの、個々人ごとに柄が異なっています。この地で、こんなカッコいい背中を見て育つことができたら、お祭りやこのまちに誇りを持つようになるのは自然のことでしょう。

しかし、かつて栄華を誇った黒島町も、最近では人口減少や少子高齢化に伴う担い手減少が課題となっています。天領祭実行委員会のメンバーは、天領祭実行委員長の小松與一氏をはじめ34名の委員で構成されてますが、委員会のみなさまだけではこの豪華かつ勇壮なお祭りを催行することはできません。

「黒島町の周辺では、公務員くらいしか働き口がなく、どんどん人が減ってしまいます。かつて600戸ほどの世帯があったのに、今では170戸程度になってしまった。」(天領祭実行委員長・小松さん)そんな時に、お祭りを支える若手が活躍しています。

お祭りの催行を支える「若波会」の若手

それが、「若波会(わかなみかい)」の方々です。「若波会」は、40代以下の若手によって構成される集まりで、他の地域で”青年部”と呼ばれる立場に近いようです。特徴的なのは、彼らの多くは普段黒島町にお住まいではないこと。金沢や、遠く東京や大阪など、進学や就職で地元を離れながらも、お祭りの時期になると黒島町に戻って来てくれます。
若波会のみなさんは、黒島町で生まれ育った方々なので、小さい頃から天領祭に馴染んできました。したがって曳山はもちろん、獅子舞や神輿、太鼓など、お祭りに関する一通りの役割を熟知していることから、「臨機応変にサポートすることができる(若波会・荒木さん)」と仰っていました。しかしながら、前述のように町外在住であるために、日常的な関わりが難しいことを悩まれているようにも感じました。
また、このような方も参加されていました。
「妻の実家が黒島町で、今は金沢の隣である松任市に住んでいますが、毎年お祭りに駆けつけています。毎年、お祭りが終わると次のお祭りの日程を確認するんです。お祭りに合わせてなんとしても休みを取得し、天領祭に来るのが習慣になっていますね」

9年間続く学生ボランティアツアーが伝統を支える。

近年は天領祭実行委員会と地元住民だけでは、お祭りを催行することが難しい状態が続いています。
曳山の舵取りに必要な人数はもちろん、伝統的なお祭りの形を守るためには、そのほかにもたくさんの役割が求められます。しかし、黒島町は今や170世帯程度(地元談)と、人口規模が縮小してしまっています。

青い貸し法被の学生ボランティア

そこで、地縁の外から天領祭をサポートするため、学生ボランティアツアーという取り組みが、長く行われています。若い力を求める地域側と、地域学習の現場を求める大学側との、マッチングの仕組みです。能登半島の自治体(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)と大学とが連携して展開される「能登キャンパス構想」プロジェクトの一つ、「能登・祭りの環」インターンシップ事業として、金沢大学・金沢星稜大学・石川県立看護大学・石川県立大学などから、黒島町のほか計4つのお祭りへ学生が派遣されています。

学生ボランティアツアーの募集チラシ(※2019年度はいずれも終了)

黒島町におけるこの学生ボランティアの仕組みは9年目となり、地元の方々による受け入れ体制はほぼ整っています。黒島町付近には宿泊施設が十分にないので、公民館が活用されます。そして、町の方々から集められた布団一式を使って寝ることができます。入浴は、近隣の公衆浴場の利用チケットが配布されるほか、滞在期間中の食事も提供されます。さらに、行き帰りは各学生の所属大学までバスで送迎されます。

今年の学生ボランティアの規模は40名ほど。派遣された学生ボランティアは、男子は、曳山の舵棒を中心とした力作業に、女子はのぼり持ちや、奴振りの世話などに配置されます。もちろん、ただお祭りに参加するのみならず、お祭りの経緯や町の文化などについてレクチャーを受けるなど、二日間の体験をより有意義な学習として昇華できるようなプログラムが組まれています。

二日目の朝、黒島町のお祭りや天領祭についてレクチャーを受ける学生

黒島町のお祭りに、学生が派遣されるようになった背景を伺いました。
2007年に発生した能登半島地震で、ここ黒島町も大変な被害がありました。その年から、金沢大学の看護学生が地区に入られて、住民の健康調査を開始したと聞きます。また、金沢工業大学の谷研究室(都市計画・建築)が地元に調査に入り、文化的に価値の高い街並みの調査が行われました。その後、黒島町が重要伝統的建造物群保存地区に指定されるようになります。
大学の地域との交流は、天領祭という文化的なテーマにも展開しました。その頃から金沢星稜大学の池田幸應先生(人間科学部長)が関わられるようになり、学生の派遣が行われるようになりました。池田先生はその後、前述の「能登・祭りの環」に携わられ、現在まで黒島町のほか能登半島の様々なお祭りを支援されています。

現在、黒島天領祭ツアーのホスト校は金沢大学で、新聞記者出身でメディア論を教える宇野文夫特任教授が先導されています。

お祭りのリソースとゴール。あるべき地域と大学との関係は。

まちの方々だけではお祭りを開催できず、外部から力を借りるということは、東京都内のように、人口密度が比較にならないほど高い地域でも当たり前に起きていることです。それを打開する手段として、祭礼日程が異なる氏子同士での担ぎ手融通や、氏子組織ではない担ぎ手グループ「同好会」による支援などが試みられています。黒島町では、その手段が学生ボランティアツアーだったということになります。結果、学生ボランティアツアーは、毎年多くの若い力を黒島町に提供し、お祭りを支える必要不可欠な存在となっています。

学生ボランティアツアーの参加者

仮定の話ですが、打開のための手段を使わない場合は、リソース不足のままお祭りに取り組むことになります。地域によっては、そうした環境変化に対応するため、リソースが増やせないのであれば、ゴールを下げる方向に舵を切ることもあります。つまり、やるべきこと(=お祭りの内容)を減らしたり、やりやすくしていくのです。開催日程を土日にするのも一例です。

黒島町では、お祭りのリソース不足に対して、学生ボランティアツアーの受け入れという形で一時的な解消を実現しました。それによって、ゴール側をあまり変化させずに現在まで来ることができたということになります。今でも開催日程は曜日にかかわらず8月17日-18日と決まっている点や、神輿や曳山を扱うのは力のある男性の役割、旗持ち等は女性の役割とされていた点など、結果として古くからの形を多く残すことができています。

しかし、学生ボランティアツアーは9年続いてきたものの、恒久的な仕組みではありません。もし、大学や自治体の予算が削られてしまったら、もし、引率する大学教授が退官してしまったら、今と同じ関係性を続けることは困難になってしまいます。お祭り初日に、天領祭実行委員会のボランティア担当の方が仰っていた、「あなたたちがいなければ、お祭りをやることがたいへん難しくなります。(天領祭実行委員会ボランティア担当・春間さん)」という言葉は、それだけの重みがあるものと受け止めました。

余談ですが、学生によるお祭り支援という話が当初持ち上がった時、担い手の全てが賛成というわけではありませんでした。それまで地元の方以外が触れたこともなかった曳山や神輿の門戸を広げることに、抵抗があったのは自然なことでしょう。しかしそうして始まった学生ボランティアツアーも今では、地域にとってなくてはならないものという位置付けになっているように感じられます。

一方で、支援する大学側も同様の課題を感じておられる様子でした。

「学生ボランティアツアーが地元の方々に定着してきたことはありがたいこと。一方で、最近気になるのは、地元側がこちらに対して期待する役割が増えてきたように感じること。何を支援するべきか、地域のための我々の役割とは何かを適切に考えなくてはならない。」(金沢大学・宇野教授)

「学生ボランティアがお祭りで汗をかく様子を、(担ぎ手ではない)地元の若い家族が見物しているという構図があり、違和感を感じることがあった。本来はお祭りには地元の人が参加してほしい。我々が学生を派遣することで、地域の担い手の方々が、新しい人を受け入れやすくなるような土壌を作りたい。」(同上)

(取材後記)今場雅規

伊藤悠喜

内陸側の能登空港から、黒島町に入った時の町の雰囲気の変化が印象的でした。それまでの里山の風景が、天領の町に入ると急に空気が締まるのです。天領祭は、とにかく地域の方々の誇りということが随所に感じられるお祭りでした。それは、天領という歴史への誇り、格式高い曳山への誇り、伝統的な街並みに対する誇り、地域だけでやれることはやるという誇り、などです。また、変化に向けた大事な過渡期にあるお祭りであるとも感じました。9年前に学生ボランティアの受け入れを始め、今年は初めて女性が曳山の舵棒に触れられることを許されるなど、外部の受け入れに対しては変化の真っ只中です。

この記事を執筆中、天領祭実行委員会のボランティア担当の方から、お手紙をいただくことができました。そこには二日間の我々の参加に対する大変な感謝が書かれていました。それだけで、来年も是非黒島町に行きたい、関わり続けたいという愛着につながってしまいます。そんな風に、人間の感情はあまりに単純です。嬉しく感じていただけたなら、こちらも当たり前に嬉しく、また会いたくなってしまいます。
地域と、外部からの支援者との関係性を設計する際も、その観点から敢えて少しの”遊び”(プログラムの外でコミュニケーションが生まれる余地)を入れることが、ゆくゆくは交流人口の増加に伴う地域の再活性化につながるのではないかと、少し傲慢な思いを持ちました。

ともあれ、天領祭実行委員会の皆様、受け入れてくださった学生ボランティアツアーの皆様、ありがとうございました。

マツリズム取材陣(今場、松村、畔津)